[連載]
電気通信大学藤沢分校物語~誕生から廃校まで vol.6

近藤 俊雄(33B)

逓信省が、藤沢市議会で「官立無線電信講習所新設費起債」をお願いした経緯を説明した。その中で、特に藤沢市に場所を求めた理由として「①学生2000人を収容可能、②船で通信訓練をするため海軍方面とも連絡の便が良く、日常何時でも海員に関する訓練を行う事が可能な場所、③校舎、寄宿舎を建設し政府に貸してくれる適当な公共団体である」と述べた(注61)。

理由の「藤沢市は海軍方面とも連絡の便が良く…」とはどのようなことなのか、を探る。本章では先ず藤沢市の一般的な歴史的・地域的特質の経緯について紹介する。

5.藤沢市の特質(注62)

5・1 湘南の中心都市・藤沢

藤沢市は首都東京の南西方向ほぼ50キロに位置し、湘南地方とよばれる神奈川県の相模湾南東岸の中心にある。周囲は横浜市、鎌倉市、茅ヶ崎市、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町に囲まれ南北12キロ、東西6・5‌5キロと南北に細長く、面積は69・5‌1平方キロで神奈川県総面積の約2・9%を占める。地形は大きく三つに区分できる。南東部は第三紀層からなる三浦丘陵の北西部端で、陸繋島の江の島もその一部である。北部はかつて相模川が形成した大きな扇状地が隆起した洪積台地であり、相模野台地の南部にあたる。平坦な地形で東に境川、中央に引地川が谷底平野を形成して南流する。台地の西部は高座丘陵とよばれる部分で、相模川支流の目久尻川・小出川が南西方向に流れる。南部は縄文時代後期まで浅い海底だった所が陸化して形成された海岸平野で、湘南丘陵地帯とよばれる。

西の辻堂、中央の鵠沼、東の片瀬で砂丘列が見られる。気候は南部ほど海洋性気候の影響が強く、温和で、リゾート地形成の要因となっているが、飛砂や煙害を被りやすいという側面をもっている。

5・2 藤沢市の先史から中世まで

藤沢市域に人々の暮らしが見られるようになったのは、今から凡そ、3万年前の後期旧石器時代とされる。(途中省略)時代は下がり、735年(天平7)の「相模国封戸租交易帳」に、鵠沼辺りと推定される「土甘(とかみ)郷」が、古代藤沢として初めて公的な記録に登場する。文学作品「更科日記」には藤沢付近の「村岡」の地名がでてくる。(途中省略)「延喜式神名帳」に載る古社としては、大庭神社・宇都母知神社(打戻)・石楯尾神社(鵠沼)がある。石楯尾神社の地にはのちに皇大神宮が勧請され、相模国甘郷総社神明宮と称されることとなる。平安時代末期、鎌倉に住んでいた平景正(鎌倉権五郎)が境川から相模川に至る高座郡の南部一帯を開発し、大庭御厨と称される荘園として伊勢神宮に寄進して大庭氏を名乗った。1144年(天養元)源義朝が大庭御厨郷に乱入したことが伊勢神宮の記録「天養記」に出ている。之が鵠沼という地名の初出である。1192年(建久3)平氏と藤原氏を平定した頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開いた。(途中省略)鎌倉に隣接する藤沢の地は人々の往来が格段に増加したが、当時の湘南砂丘地帯は、砥上ヶ原、八松(八的)ヶ原と呼ばれる淋しい砂地の荒野だった。その光景は、ここを通る歌人(西行法師)の心を捉えて歌枕となった。頼朝をはじめ、鎌倉の坂東武者は時折馬の遠乗りや鷹狩りのために相模野台地の原野まで訪れ、渋谷氏の居館などを宿所とした。鎌倉においては、武家社会に支持された臨済宗が「五山」と呼ばれる大伽藍を持つ寺院を中心に興隆する一方、念仏や題目をひたすら唱えることを説く宗派も庶民に支持された。これら「鎌倉仏教」と呼ばれる動きのうち、藤沢に関連深いのは浄土真宗(鵠沼)・時宗(藤沢)・日蓮宗(片瀬)である。1333年(元弘3)、新田義貞軍が鵠沼に放火し、村岡辺りで幕府軍と交戦し、稲村ヶ崎を経て鎌倉に攻め込み、幕府を滅亡させた。二年後に中先代の乱が起こるが、辻堂・片瀬原の合戦で北条残党を滅ぼした足利尊氏は京都室町に幕府を開く。政治の中心は京都に戻ったが、鎌倉には関東管領が置かれ、主に上杉氏が支配した。この時代に編まれた「太平記」に「藤沢」の地名が初めて出てくる。大庭御厨は一時結城氏が地頭となるが、その後上杉氏の支配下に入る。15世紀半ば頃、扇谷上杉氏が支配権を握り、その家臣太田道灌が大庭城を修理築城したといわれる。

藤沢分校_25-2-1

5・3 藤沢市の近世

15世紀末、小田原城に入った伊勢宗瑞(のちに北条早雲とよばれる後北条氏の祖)は、16 世紀に入ると相模一帯の支配に乗り出し、上杉朝長の大庭城を落とす一方、玉縄城や鵠沼砦を築き相模川以東を東郡として支配し、ここに大庭御厨は消滅したと考えられる。後北条氏は藤沢に大鋸引(おがびき、製材業・大工)を集住させ伝馬を置く。これが「大鋸(だいぎり)」の地名の起こりであり、現在に続く藤沢の街の基礎が形成された。1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏は敗北し、遺領は徳川家康の支配下に入った。家康によって五街道が整備され、藤沢に御殿・代官陣屋が設置され、東海道の伝馬宿となった。

写真①清浄光寺(遊行寺)

写真①清浄光寺(遊行寺)

江戸初期に遊行上人普光が再建した清浄光寺(遊行寺)(写真①)は、1631年(寛永8)幕府から時宗247寺の総本山として認められた。藤沢は宿場町と門前町を兼ねた性格をもつようになる。江戸の町人文化が安定して発展した元禄期頃から、大山詣や江の島詣(写真②)が盛んになり、藤沢宿は東海道の往来ばかりでなく、江の島道の分岐点としても賑わうようになる。この頃、杉山検校が江の島道の各所に弁財天道標を建てた。一方、藤沢宿周辺の43か村は助郷村に指定されて負担が増した。(写真①、写真②:注63)

1728年(享保13)幕府鉄砲方の井上左太夫貞高が享保の改革の一環として片瀬山から相模川に至る湘南海岸に相州砲術調錬場(鉄砲場)を設置する。鉄砲場内での耕作が禁じられたほか、物資運搬や宿舎提供などが義務付けられ、村民の負担はさらに増えた。

写真②

写真②

藤沢市域は水田適地が少なく、麦や雑穀を中心とする自給的な農業が中心だった。辻堂や鵠沼の砂浜では地引網が主な漁法だった。漁獲物の多くはイワシで、干鰯(ほしか)として肥料にされた。江の島ではカツオ漁と磯物のイセエビやサザエ漁が行われた。片瀬は河口港として発展し、高瀬舟で川を下ってきた年貢米や諸物資が、200石船などの外洋船に積み替えられた。260年余の江戸時代には、元禄地震や安政地震をはじめ、想定マグニチュード7以上の巨大地震は9回を数え、富士宝永山の大噴火や浅間山の大噴火が飢饉をもたらした。藤沢宿は境川の谷の出口がふさがれたような場所にあるため、しばしば水害に悩まされた。

5・4 藤沢市の近代

1868年(明元)9月、明治維新によって神奈川県と改称された。1872年(明5)羽鳥村の名主三嘴八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて読書院を開設し同年8月、学制が布かれると読書院は羽鳥学校に改称し、以下藤沢市域では鵠沼学舎(現鵠沼小学校)など5校が次々に開校した。一方小笠原東陽の読書院は中等教育部門を私塾として存続させ、後に耕餘塾、更に耕餘義塾と改称し、政財界に多くの人材(鈴木三郎助、吉田茂等)を送り出した。然し1897年(明30)台風で校舎が全壊し、1900年(同33)に廃校となった。

王政復古の大号令の下に、明治政府は神政政治を目指し、廃仏毀釈を早々に断行した。この影響をまともに受けたのが江の島の金亀山与願寺である。寺は廃されたが弁財天信仰は引き継がれ、宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館となった。開港以来、片瀬や江の島には多くの外国人が訪れるようになった。動物学者のモースはシャミセンガイ研究の為、江の島に日本最初の臨海実験所を開いた。貿易商のコッキングは江の島の東山頂部にあった与願寺の菜園を買い取り、別荘と熱帯植物園を造営した。ヨーロッパ式の海水浴も伝えられた。医師ベルツは海水浴場適地を探索し、片瀬は海水浴適地と内務省に紹介した。「海水浴場」と銘打った例としては、1886年(明19)の鵠沼海岸海水浴場が最初である。海水浴客を当て込んで「鵠沼館」が開業し5年ほどの間「対江館」(田中耕太郎建築)「東屋」(伊東将行建築)が相次いで開業した。1891年(明24)学習院が隅田川の浜町河岸にあった遊泳演習場を片瀬に移すと、片瀬海岸に学習院の寄宿舍が建てられた。1911年(明44)遊泳演習所は沼津御用邸の隣接地に移されるが、この跡地を活用して村営の海水浴場が開設された。長後は、開港地横浜に続く長後街道と機業中心地八王子へ続く八王子(滝山)街道の交差点の故により、台地上の各地に製糸工場が設立され養蚕業の中心地となった。藤沢市域で最初のキリスト教会が開設され、平野友輔が近代医療を開始した。1887年(明20)、後に東海道本線となる横浜―国府津間が開通し藤沢停車場が開設される。鉄道の開通により農業形態も自給農業から商業的農業へ発展した。北部の台地では養蚕に加えてサツマイモ栽培と澱粉工業・アルコール醸造、その残渣を利用した養豚が盛んになる。南部の砂丘地帯はサツマイモやモモなどが特産品となった。

1878年(明11)に郡区町村編制法が実施され、高座郡役所が藤沢に置かれた。町村統合は続き、1908年(明41)には藤沢大阪町・鵠沼村・明治村が合併して藤沢町が誕生した。

1868年(明治元)に廃止された相州炮術調錬場のうち、辻堂は横須賀海軍砲術学校の演習場(詳細次号)として残されたが、鵠沼は大分の府内城主だった大給子爵が入手した。鉄道開通を機にここに日本初の大型別荘分譲地・鵠沼海岸別荘地が開発(武蔵川越の出身、伊東将光)されることになる。広大な不毛の砂原に一町ごとに街路網が敷設され、区画と砂防のためにクロマツが植栽されて分譲された。1932年(明35)、江島電気鉄道藤沢―片瀬間が開通する。以来、華族や富豪の別荘が次々に構えられ、一方で区画を数百坪単位に細分して営まれた貸別荘を拠点として、白樺派の文士(武者小路実篤、志賀直哉等)や草土社の画家(岸田劉生)、大正教養主義の学者(安倍能成、和辻哲郎)らによって新しい自由な文化が鵠沼から発信された。1923年(大12)9月1日、関東大震災によって市域で4000戸余が倒壊したが、大規模な火災は発生しなかった。津波によって江の島桟橋をはじめ、境川、引地川の橋は被害を受けた。海岸部では1メートル前後の隆起がみられ、砂浜は広がり、江の島では隆起海蝕台が海面上に現れた。震災からの復興は急ピッチで進められ、被害の大きかった京浜地区から多くの人々が移り住み、海岸部の別荘地は定住の住宅地となっていった。1929年(昭4)小田原急行鉄道江の島線が開通すると本鵠沼や鵠沼海岸駅周辺では耕地整理の名目で街路の整備が行われて住宅地化が進んだ。震災からの復興が一段落した頃、レジャー施設の開設が相次いだ。鵠沼海岸には安全プール、藤沢には競馬場、片瀬山には遊園地「龍口園」が開かれたが、世界恐慌の影響などで長続きしなかった。1929年(昭4)、県知事山縣治郎は湘南と箱根を結ぶ国際観光地の開発を目指し、「湘南遊歩道路」県道片瀬大磯線の敷設を行った。当時は緑地帯や乗馬道も設けられ、砂防林として砂丘列に沿ってクロマツが植え付けられた。一方、相模野台地南端の地形と展望を活用し、藤沢カントリー俱楽部 (設計:石井光次郎、赤星四郎他)が開設された。1940年(昭15)藤沢町が市制を施行して藤沢市が誕生する。翌年には鎌倉郡村岡村、さらに翌1942年(昭17)に高座郡六会村が藤沢市に合併した。太平洋戦争に突入すると、北部の台地に藤沢海軍航空隊と海軍電測学校が開設される。南部の海岸地域に、官立無線電信講習所が藤沢分教場を設置した。戦争が激化すると、藤沢市は疎開先となり、人口が急増した。(以下次号)

注)引用資料は最終稿にまとめて記載します。
注61: 会報Vol・24-1
注62:鵠沼郷土資料室
注63: ウィキペディア「藤沢市」