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45電気通信大学藤沢分校物語…❽団・水雷団の他に、砲術練習所・水雷術練習所があり、また軍艦の実弾射撃訓練も実施された。ここに登場する軍艦は一等巡洋艦9,700トン級の大型から二等砲艦の600トン級の小型まで多様な形式がみられるが、何れも横須賀鎮守府所属の艦隊のみならず、呉、佐世保、舞鶴各鎮守府に配属のものまで含まれ平時編成に於ける常備艦隊の一部であった。同表はまた、射撃演習が湘南海岸の海水浴の季節7・8両月を避けて12・1月の冬季に集中し、毎月繰り返されていた中でも、この2ヶ月に年間度数の約半分が集まっていた。こうした射撃演習は同年のみに留まらず、殆ど毎年実施されていた事は疑いない。8・5演習場・別荘地・辻堂駅(注85)1872年(明5)東海道線(新橋―横浜)が開通し、1887年(明20)に程ヶ谷(現在の保土ヶ谷)・戸塚・平塚駅が開設、同31年茅ヶ崎駅も設置された。1902年(明35)江ノ電線(藤沢―片瀬)の新設は、それまでの鵠沼海岸などにおける別荘地帯・海水浴場に加えて、辻堂海岸方面も、新たな別荘地として京浜地方の人士に注目されるに至り、ここに演習場と別荘地の利害関係が対立するようになった。軍事訓練が避暑・海水浴の季節でない冬季に実施されるという配慮がなされたが地主の不満を抑えるのが出来なかった。然し軍用地の払下げは、この後も容易には実現されなかった。辻堂駅開設請願運動は1914年(大3)に「辻堂停車場既成同盟会」が結成され、その設立と共に決議書を作成した。ここには予定駅の敷地及び新設道路用地の買収にいかに応ずるかという申し合わせが記されている。次にその請願書の新駅開設に関する要求の理由を要約する。新駅開設の第一の理由は藤沢―大船駅の距離が約4・5キロに対し、藤沢―茅ヶ崎駅の間隔は約7・5キロの遠距離にあり、辻堂の地域住民にとって駅が多大な不便をもたらしていた。「上流名士別荘住宅」の新築・増加がみられるに至った。その結果、近村の戸数は約1万戸、人口にして約4万人を超え、以上からも地元住民の便宜に応えて欲しいという事であった。第二の問題は辻堂一帯が「雑穀・甘藷」の生産地で、他の地域への移出量は約50万俵に達するうえ、「蔬菜・魚類」及び他地域依存の肥料、その他生活必需品も増加し、「穀物・果実」の作付に良い「平担ナル砂質地」が広がり、畑地としての開発の可能性が保証できる。また「水質極メテ清涼、其ノ量亦甚ダ豊富」なため「工業家ノ注目」を集めて、工業地帯としての発展の将来性もある事を強調している。第三の根拠は、数百人から千数百人の軍隊が交代で辻堂演習場に出動し、また火器・弾薬・器材が藤沢停車場より輸送されているが、「不便」と「失費」の少なくないことが関係官庁で検討されていると「仄聞」しており、国家の利益に沿うとしている。この結果、翌年4月辻堂駅の設置承認の内示(約2,500坪の無償提供、移転補償ナシ)が通達され、1916年(大5)2月、寄付の所有権移転完了、同年8月起工、新駅は3ヶ月余りの短期間で完成した。以上のような辻堂演習場を含む湘南海岸一帯の軍事化の中で、1921年(大10)11月18日には鵠沼海岸で海軍陸戦隊(横須賀鎮守府所属)の上陸演習が行われ、大正天皇に代って、当時の皇太子(後の昭和天皇)が統監した事は極めて象徴的な事であった。(以下次号)注81:ウイキペディア「明治維新」注82~85:藤沢市史第6巻抜粋、要約注83‐1:藤沢市史第6巻から引用した「辻堂海岸の海軍演習場」第8‐1図の中で表記されている大ヤンゲンを大ヤゲンとした。その理由は、本文の中では大ヤゲンと書かれ、また、「藤沢の地名」(藤沢市発行)においても、同様に大ヤゲンと表記されている。

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