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44調布ネットワークVol.26-2すでに旧幕時代に、鉄砲場として使用されてきた鵠沼・辻堂村の演習場には農民の共有林や開発新田などが含まれ、土地所有権を認めたままで、幕府は軍事目的に同地を利用していた(『市史』第五巻第四章第四節参照)。明治初年以降も、政府は旧鉄砲場を一括接収するかたちで、旧幕府から引継いだわけでなく、一部に地主の土地所有権を認めながら、徐々に軍用地として民有地の買収を推進していったようである。演習場の区域内部にある土地所有権の移動に就いては、史料の制約から明らかでない。1906年(明39)、横須賀鎮守府が辻堂海岸の土地40町歩強を買収して、軍事訓練の目的に利用していた事実がある。これは第8-1図の辻堂演習場{1933年(昭和8)当時で、同図から約80町歩余りと概算・推定}の約半分に近かったと考えられる。残余に関しては不明である。また辻堂地区には同演習場以外でも東京築地の海軍造兵廠が羽鳥の地主三觜家その他との間に、土地と家屋の賃借関係ないし買収を進めていた事実がある。海軍造兵廠は横須賀造船所、東京・大阪砲兵工廠に次ぐ規模の工場であり、1889年(明22)兵器と火薬の二製造所を基礎に設立された。以後その規模を整備・拡張し、日清戦争当時には、砲身・砲架・砲弾・水雷など海軍で必要な兵器を製造・供給する中心工場となった。辻堂方面に土地・家屋を必要とした理由は、火器弾薬ないし器材などの保管用地などに使用したのであろう。これら造兵廠が進めていた土地は、何れも引地川の下流域にあり湘南砂丘地帯の海軍演習場に含まれる地区であった。これらの鵠沼・辻堂南部の軍用地は、極めて広大な地域にまたがり、それが同方面の軍事的性格を強めていったことは否定できない。8・4 海軍演習の状況(明治・大正) (注84)1909年(明42)、川口村村長は、片瀬から鵠沼海岸の西浜に通じる境川筋の「山本橋の整備」に関し提出した県知事宛の請願書(『町村会議案及び決議書』川口村役場文書)の中で同橋は架設以来、横須賀鎮守府の海兵団(軍艦乗務の補充員と軍港警備員)などが辻堂演習所へ至る通路に当たり、毎年士官・水兵多数が数十回通行するなどその軍事的重要性を述べている。第8-2表は1902年(明35)の1年間に、辻堂海岸において実施された射撃演習の状況を集計した表である。史料はこの年に関して記録されているに過ぎないが、年間を通じて同演習場を利用した官庁は、横須賀鎮守府所属の海兵須賀地区の影響を受けない筈が無く、まして江戸時代に鉄砲場として設定された鵠沼・辻堂海岸の砂丘地帯が、軍部にとって好適な条件を備えた演習場として注目されたのは当然であった。明治期以降、演習場として指定・利用されてきたのは、辻堂村でも小字の大ヤゲン(注83‐1)・弥平田・砂山・勘久などの地区にまたがる湘南砂丘地帯[現在の住宅公団辻堂団地・県立辻堂海浜公園・相模工業大学(現湘南工科大学)などの敷地にほぼ相当する地域]を中心に、その西部は茅ヶ崎方面の海岸(筆者注:松下政経塾など)まで及んでいた。(第8-1図参照)

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