chofunetwork26-2
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41南下して高田バイパスに入ったあたりから、景色は一変する。道の駅「高田松原」は建物の残骸がぽつんと残っていた。その先には盛り土の土を運ぶ巨大ベルトコンベアの林が見える。海岸沿いには例の一本松も見える。試しに市街地に入ってみたが、町中が更地で道路のみそのままの状態であり、カーナビの市街地図との対比に改めて津波の恐ろしさを痛感した。一部はすでに盛り土がされている地域があったが、10m近い高さであり、本当にこの対策は日常生活に影響がないのだろうかと疑問を持たざるを得なかった。住民は毎回この段差を上り下りしなければならない。数百年に一度の災害のためにここまでするのかと疑問を感じた。現代科学でも地震発生の予測はできていないが、少なくとも津波の発生と大きさ、到達時間は瞬時に予想できるようになりつつある。避難場所と避難方法を確保すればここまでする必要はないのではないだろうか。震災から3年半経ってもまだ住民は戻れない。こちらの方が大きな問題ではないだろうか? 既に地元に帰るのを諦めている住民がかなりいるとニュースで報じられている。より早い復興を願うしかない。奇跡の一本松を見学した後、気仙沼に出た。昼をだいぶまわっていたので、復興商店街である、「気仙沼鹿折復幸マルシェ」を訪ねた。お店にはチャリティやボランティアに来られた方々の写真が多く貼られており、彼らと住民に頭が下がる思いであった。食堂のご主人から、ここも地面の嵩上げ工事が入り立ち退きを余儀なくされており、その後の生計をどうするか途方に暮れているとの話を聞き、心を痛めた。気仙沼を後にさらに45号線を、破壊されたままのJR気仙沼線を見ながら南下し、松島に出た。松島は多くの小島の影響で津波が小さくなり被害は少なかったようだ。以前寄った海岸沿いの店で今回も生牡蠣を食することができた。地形に依る被害の差を感じた次第である。実際に自分の目で見て感じることはやはり大切であることを改めて実感した。復興の進め方についてかなり考えさせられたが、関係者でない自分がとやかく言う資格はない。しかし、政府、自治体、見識者の意見と実際に被害にあわれた方々の意見に相違が生じないことを望む。以前の町の賑わいが早く復活するよう願うのみである。また、震災から3年半経っても本当の復興はまだまだ道半ばであったことを最後に報告させていただく。気仙沼鹿折復幸マルシェ復興商店街内の食堂(塩田さん)特別寄稿三陸海岸の復興の現状

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