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351994年に出向しました。当時、住友金属鉱山は資金提供だけではなく、人材も提供しますということで、技術者として米国に行きました。自分達が研究から始めた光デバイスが、製造されて部品になり、さらにまた半導体パッケージング部材の開発等も経験、なんとなく新しいことをやりたいなと思っていたところ、「米国に行く次の要員誰かいませんか?」という風に話があり、ちょっと行ってみようかなと。それで手を上げてみたら、結局あっさりと行けることになりました。 英語は得意ではないけれど、会社で決められていた海外出張が可能になるTOEIC試験基準はクリアしてはいました。それでも言葉は苦手でした。でも技術者ですから行っちゃえばなんとかなるかな、とわりと安易な考え方をしていました。 海外出張も学会とかが多く、ヨーロッパ、カナダ、アメリカなどに行っていたのですが、そのときの話す言葉というのは学会英語で、聞いてくださる方も研究者。しかも英語が互いに第二外国語だったりすることも多く、結構通じるじゃないかという感じだったのですね。そのつもりでアメリカへ行ったわけです。成田から飛行機でサンノゼに行き空港でレンタカーを借りてホテルになんとか向かい、着いてチェックインしたら会社に顔出さないといけないので、またレンタカーで会社まで運転しました。国際免許を持って海外で運転するのは初めてでしたので相当ドキドキしましたが今となっては楽しい思い出ですね。大竹 米国で勤務したnCHIP社およびFlextronics社について教えてください。中島 nCHIP社は、その当時5年くらい前に起業したベンチャー企業でした。起業して2年後くらいに、増資を求めていた時期に、住友金属鉱山が何らかの形で絡むようになったらしいです。社員はほとんどアメリカ人です。日本人はいませんでした。元々アメリカの方が起業した会社で、技術的に面白いし将来的にも材料とか部品開発に役に立つだろうということで、住友金属鉱山が投資をしたのです。駐在員ではなく出向社員として行きましたので、nCHIP社の社員となったわけです。予想していたのと違っていたのは、カルフォルニアシリコンバレーということもありますが、それこそ国際色豊かであったこと。同僚のエンジニアたちは中国系やベトナム系、南米系でしたし、上司は台湾系、その上の上司、幹部クラスは白人系米国人でしたが少数派でした。なので逆に入りやすかったですね。めちゃくちゃな英語だらけでした。 1996年にnCHIP社は、Flextronics社に買収されると、私は研究開発マネージャーとして引き続き残らせてもらいました。出向社員のままで残りましたが、ベンチャー企業が買収され、買収した会社が毎年業務拡大していきアメリカ的な急成長すると、買収された企業の社員が経済的に幸せになっていく過程を目の当たりにしました。日本では買収されるとあまりハッピーじゃないイメージがありますが、米国ではハッピー・ケースも多く、買収されることがベンチャー企業としての起業目的のひとつにもなっているのです。下ばかり見ず上を見て進む姿勢が起業成功の秘訣。大竹 その後、住友金属鉱山をやめて米国で起業するわけですね。中島 2000年頃住友金属鉱山から「日本に帰って来い」という話がありました。当時7年間米国にいてこのままここで仕事を続けられた支部だより

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