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45然し、次の代になり復職し第36代英龍(1801~1855)に受け継がれる。1834年(天保5)、英龍は34歳の時、代官職を継いだ。それまでの彼は1825年(文政8)の「異国船打払令」に象徴される鎖国日本の状況を憂い、その3年後に起こった「シーボルト事件」を悲しむ。やがて国内では新潟での百姓一揆等、頻発する中に、封建の世の変動を敏感に受け止めていた。彼が代官職を相続して間もなく大塩平八郎の乱(1837年=天保8)、そして米国商船の浦賀入港事件等の大事件が頻発したため、民政の改革と海防の充実を痛感し、職制を超越して西洋の新知識吸収に急傾斜するようになる。既に開明君主として知られる水戸藩主・斉昭は自ら洋式船建造に踏み切り、幕府に先んじて海防の具体策を実現しつつあった、然し鳥居耀蔵等に代表される幕府役人の頭は鈍かった。周囲の開明武士・知識者が「改革」をいくら言っても実効性はなく、日増しに幕府及びその重職者等への批判は高まっていった。そうした1840年(天保11)、清国とイギリスとの「阿片戦争」が起こり外国からの侵略に対する危機感は日本中に広がっていった。もはや対岸の火事として、傍観できない状況を迎える事になる。ここに英龍の砲術師範である高島秋帆は「阿片戦争」の日本への影響を予想して、幕府に対し、いわゆる「西洋砲術意見書」を建議した。幕府は一応西洋砲術を採用すべしとの意見を入れて、翌年5月、徳丸が原で洋式銃隊砲隊の調錬を許した(注79)。然し、幕府の伝統的な砲術家達はこれを酷評したが、実力の差は明らかであった。1842年(天保13)6月、幕府は直参(旗本、御家人)の他、大名の家臣でも秋帆の訓練を受けてよいと令し、高島流砲術の声価は定まった(注72)。英龍が藤沢との関わりを具体的にもつのは1834年(天保5)からである。英龍が藤沢関係のことで最も衝撃的な処断として知られるのは、鉄砲場見廻役と鉄砲方役人・佐々木氏の処罰事件である。鉄砲場に取り立てられて以後、幕府の鉄砲役人達が大勢来て、一定の期間、練習を行っていた。鉄砲場の管理は現地の宿役人に任せられており、幕府方での派遣隊責任者は、いつごろからか佐々木氏となっていたが、本来、芳しくない管理、つまり調錬場内の作付(田作)を地元の農民に許可していた。この事が、1832年(天保3)、国改めで発覚し、佐々木氏は祖父・父・長男ともども流罪、藤沢宿役人・辻堂村名主の5名は、伝馬町の牢屋に投獄された。うち1名は自殺する。この事件は、鉄砲場管理だけの問題でなく別の問題が含まれているようである。それは英龍を先頭とする開明派武士や知識者達の、鉄砲方‐2角打:近距離射撃訓練。平場の鵠沼海岸で行う。打場から一町(約109m)毎に定杭を打ち発射の度に着弾地点を特定し、飛弾距離を測定。‐3船打:船上射撃訓練。地元の漁船小舟3隻と300石船一艘を借り、船上から射撃訓練をした。‐4下ケ矢(さげがや):高所から下方へ打つ訓練。片瀬村駒立山から下方に打ちおろした。7・3 江川太郎左衛門(注78‐1)江川太郎左衛門家は平安時代以来明治維新に至るまで38代続いた名家である。平安末期に伊豆に移住し、源頼朝の挙兵を助けたために領域支配が確定した。1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられた。以降江川家は、1723(享保8)~1758年(宝暦8)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領五万四千石(後二十六万石)の代官として、民政に当たった。7・3・1 江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)藤沢宿代官江川家は、1723年(享保8)、花木橋と戸塚往還修理の為中原の林を伐り出す際、手代の不正事件が発覚し代官職を解かれる。電気通信大学藤沢分校物語…❼

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