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自由投稿/「学生時代の思い出」

井上秀雄 (昭和19年第一部高等科二期卒)

私は大正14年1月生れで昭和の年号と同一の満93歳です。

昭和の歴史はあの大戦争が終った昭和20年を境にして、それまでの軍国主義時代と戦後の焼跡から立ち上って、JAPAN  AS No. 1 とまで云われた経済の高度成長時代を経て今日に至っていますね。
私は思うのですが、人生とはその人がどんな時代に生きたのか?
云わば、その人の時代背景が大きくかかわってくると云えますね。

私は昭和20年3月に初めて長崎に行きました。
その時に初めて逢ったお婆さんの声が忘れられません。それは造船所と町を結ぶ小さな舟に乗る為に大波止で行列をしていた時です。行列の中に若い男が割込んで来ました。
するとお婆さんが「そんな事をするとな、天皇陛下様に申付けるからな」と云ったのです。
私は之を聴いて長崎にはなんと純粋な良い人が居るんだろうとこの町が好きになりました。

昭和16年12月8日、遂に日米戦争が始まりましたね。
旧制中学の5年生でした。開戦の放送を聴いた瞬間大きな衝撃を受けました。
それは昭和12年私が中学校に入学した年に始まった日支事変が4年たっても未だ解決してないのに米国と戦争してどうなるんだという不安でした。学校へ行くと同級生が騒いでいます。
「英語なんてやめちゃえ」 之は英語の先生が一番こわい先生だったからです。
然し目前に迫っている大学の入学試験では英・数・国・漢と云われて学校でも英語の授業は一週間に十時間位ありました。
当時は旧制高等学校、大学予科、専門学校、軍関係の陸軍士官学校・海軍兵学校、軍の経理学校何処を受験するにしても英数国漢の四科目は絶対必要で理科系学校になると更に物理・化学が加わるので受験勉強は大変でした。
戦争が始まるや否やハワイの真珠湾攻撃に続いて香港占領、マニラ陥落、シンガポール陥落、英国が不沈戦艦と誇った最新鋭のプリンス・オブ・ウエールス、レパルス、二戦艦の沈没と国民は初戦の勝利に喜んでお祝いの提灯行列もありました。

一方我々受験生にとっては嫌な噂が広まって来ました。それは大学・高等学校を始めとして上級学校の合格者は良いとして不合格者は全て軍需工場に徴用される、浪人は許されないという噂です。さあ大変! どこかの学校に入らないと徴用、悪くすると招集令状軍隊への通知がくるかも知れんと思いました。明けて昭和17年春、旧制高等学校の入学試験が全国共通同一試験問題で実施と決まりました。現在のセンター試験のようなものです。
全国共通ならば一高を受けてみてはどうかと担任の先生に聞くと「馬鹿もん一高には一高向きの秀才が集まるからお前には無理だ」とあっさり云われて、さあて志望校を何処にするか悩みました。家の経済状況を考えると地方の高等学校を志望して下宿するなんてとても出来ない。都内にある学校で且つ官費養成で月謝のいらない学校を探すと中央気象台の気象官養成所、農林省の水産講習所、逓信省の逓信官理練習所、あとは軍関係の学校で何れも気乗りしない学校ばかりでした。
その頃の受験生相手の雑誌は欧文社の「蛍雪時代」と研究社の「受験と学生」の二誌があり、之を見ると昭和17年の春に逓信省が目黒にある無線電信講習所という小さな学校を官立にして無線通信士を大量に養成する修業年限は席上課程2年実習課程1年合計3年という記事を見つけ、よし!此処にしょうと決めました。現在は調布にある国立大学法人電気通信大学の前身校です。
逓信省の学校としては他に逓信官史練習所があり、ここは省内で勤務する人を養成する所でした。無線通信士の資格は国家試験で一級、二級、三級があり就職先も外国航路、近海航路、漁船、飛行機と区分がありました。私が進んだ高等科を卒業すれば一級通信士の国家試験は免除される。トンツーの早さでは和文が1分間に85文字、欧文が125文字の送受信が出来る事でこの資格は世界各国共通です。

ところがね! この学校は落第が激しい。1年を二期に分けて試験すると第一期の試験で入学した学生350名の内125名位落第しました。之を見て卒業生を獲得しょうと考えていた海軍が文句をつけて来ました。「戦時下にそんなに落第生を出すなんて!校舎増設の資材は分けてやらん(藤沢に新校舎を新設する計画があった)」と云う。
之に対して逓信省が反論しました。「一級通信士というのは戦争が終れば外国航路の船で世界中の無線局と交信する世界共通の資格だからそう簡単には養成できない、単にトンツーができればよい、という問題ではない。」
確かに学科は無線工学、電気理論、高等数学、通信術の他に国内外の法規、国際法、海商法英語、英会話、フランス語(国際電気通信条約の第一言語が仏語)気象学、倫理学、等で東大から素晴らしい先生が来ていました。
戦時下にこれ程勉強させてくれたのは有難いことでした。

私は落第して二期生になりました。
卒業は一回落第すると半年遅れます。本人としては不名誉な事ですが逆に当時はああ! 半年いきのびられるという思いもあって自分自信を慰めていました。
御存知の大学生の繰上げ卒業で、昭和18年10月で大学生の分列行進が雨の国立競技場でありましたね。我々もそうでしたが当時の学生は常に生と死の悩みを抱いていたと云って良いでしょう。昭和18年戦況が悪化するにつれて通信士の消耗が激しくなり海軍が我々の学校に海軍予備練習生という制度を設けて卒業後に海軍を志願すれば半年の教育で陸軍少尉にするという、いわば囲い込みの網を張りました。すると陸軍も同様に半年の教育で海軍少尉に任官させるという奪い合いが始まりました。
学生は短釼をさげた海軍少尉にあこがれがあったせいか陸軍へ行く志望者は少なかったです。
私は近眼でしたからどちらも志望せず民間に出るつもりでした。

私の親友に宮崎英男という男が居ました。彼は安田工業から来たので高等数学は既に勉強済でしたが英語が弱かった。私は中学校から入ったから英語は楽でしたが、高等数学がさっぱり判らないので彼に教わりました。彼は落第しませんでした。
一期生は昭和19年の1月には二年間の席上課程を3ヵ月短縮して実習課程に進みました。
その内容は船舶用の無線機を造っている東芝・日本無線・安立電気等での工場実習と船舶に乗って航海をする船舶実習ですが之が悲劇の始まりでした。
宮崎英男も船舶実習で三井船舶の大鳥山丸という船に乗りました。
この船は戦時標準船とは云え播磨造船所が作った16ノットも出る5千トンクラスの優秀なタンカーでその二航海目でした。 航空機用のガソリン9千トンを積みシンガポールからマニラに寄港、マニラで14隻の船団を組んで日本に向うのですが、14隻の中にはスピードの遅い船も居ます。その為に航海速力は11ノットという大鳥山丸にとっては遅いスピードで北上を開始しました。
昭和19年になると南方海域は勿論日本の周辺でも制空権制海権は完全に失われ海軍の護衛なんてあてになりませんでした。アメリカの潜水艦は狼群作戦と称して、丁度狼が獲物を狙うように3隻の潜水艦が一組になって三角形の中に日本の輸送船を包囲する形で攻撃してきました。
攻撃を受けた船団は低速船を放り出して逃げ回りました。

昭和19年7月26日の午前3時、発射された魚雷が大鳥山丸と安芸丸に同時に命中し大鳥山丸は積んでいた9千トンのガソリンが大爆発して暗闇の海上を真昼のように明るくしたと、たった一人助かったボーイ見習の田口さんが回想しています。乗組員名簿を見ると乗組員47名中14歳から20歳未満の若者が30名、宮崎もその中の一人でした。
ガソリンが燃える海で悲惨な最期をとげた、何とも痛ましい遭難でした。
一期生は宮崎を含めて22名が卒業式を待たずに実習中に戦死してしまいました。何しろ卒業前の学生の身分ですから何の補償もありません。
学校もショックを受けたのでしょう、船舶実習はやめました。

一回落第して半年生き延びたと思ったら二期生は繰上げ卒業で昭和19年9月に卒業になりました。母親に卒業を告げると「もう一回落第すれば良かったのに」と云われました。
私はそれから3ヵ月三鷹の日本無線の工場で実習した後、昭和20年1月に山下汽船に配属となり呉で乗船しました。乗った船は戦時標準船のA型という6800トンの船でシンガポールから帰ってきたばかり、船員に話を聞くと「この戦争はもう負けだよ、連合艦隊の軍艦は何処にもいないよ、この船だって図体はでかいけれど狸の泥船だよ」という話を聞いてびっくりしました。

実際に仕事についてみると船内の電気は発電機をフルに廻しても100V出た事がありません。85Vから90Vがやっと、風呂の水は何時も赤錆で赤い。船足も7~8ノットしか出ないから潜水艦に狙われたら逃げられません。「SOSの電波は一切発射してはいかん。航海中にベッドに横になる時は服を着たまま寝ろ、やられたら海に飛び込む時は外套を着て飛込め」と教えられました。戦時標準船と云うのは全国の造船所で同一の図面で作るから大量に早く出来るという目的でタンカー、貨物船を8種類に絞って600トンから1万トンまでを何隻作るという計画でしたが計画通りには進みませんでした。戦況の悪化に伴って輸送力はガタ落ち、鉄鉱石が入って来ないから製鉄量は減少する、出来た鉄を陸軍と海軍が奪い合う、その結果造船量も計画通りには進みません。6800トンのA型船を125隻造るのがやっとでした。戦争が終ってから判ったのですが、アメリカも戦時標準船を作っていました。リバティ型という約7000トンの船ですがその建造量を見るとビックリしました。なんと2700隻造っています。何故そんなに出来たのでしょう? それは自動車工業でシステム工学を経験済みだからです。

全国の自動車工場が造船所に早変わりしました。丁度蒲鉾を切るように船体を六つ位に切って作ります。各工場でブロック単位に出来た船体の部分部分を、造船所のドックに並べて電気溶接でつないでしまいます。2週間後には完成して出航して行くという話を聞いて唖然としました。
開戦前に、「アメリカと戦争したって経済力、工業製産力で叶いっこないよ」という論説は読んだり聞いたりしていましたが、こういう論説は言論統制が厳しくなって話す事さえ出来なくなりました。

私の家内の父は昭和13年頃にアメリカから帰国して家内の母と結婚、『戦争になると負けるぞと』云うので母親が「そんな事云ったら非国民と云われるから云わないで」としょっちゅう口止めの喧嘩をしていたと聞かされました。
サイパンが陥落してB29が200機、300機と大編隊を組んで空襲に飛来する、それが毎日のように続きました。その工業力、資源、技術力を直視しなければいけなかったのに日本では松の木を切って松根油を作っていました。指導者の判断力、決断力を問いたくなりますね。
それと日本の海軍には商船隊を護るという思想が全然ありませんでした。英国は商船隊を護らなければ英国は喰っていけないと云う思想が英国海軍の健軍の元になっていました。
日本海軍は日露戦争で大勝したから大艦巨砲主義が根付いて伝統になってしまいました。商船隊を護るという思想はありませんでした。
大和・武蔵はその結果ですが戦果は0でした。山本司令長官は飛行機の時代と主張して初戦は勝ちましたが後が続きませんでした。

私の乗った船は北支の秦皇島往複の一航海を無事終って長崎の三菱造船所のドックに入りました。昭和20年8月9日、運命のその日も造船所は鉄板を加工する騒音とガス溶接、電気溶接の光が交錯して平常通り動いていました。私は海軍武官府に暗号書、当時、暗号書には全て船がやられて沈んだ時に暗号書が浮上しないように背表紙に鉛のオモシがついていました。
潜水艦情報、天気図作成暗号等新しい暗号書を貰いに行く予定でした。
原爆が落ちた瞬間私は船室に居ましたが窓から見えた光を見て、今の光は何だ、電気がショートしたのか、それにしても明るすぎると思って外に出ると今迄ガンガン響いていた造船所の作業音が全然しません。無気味な静けさを感じて、之は近くで何かあったなと思い暗号書の入った袋を担いで近くの防空壕に避難しました。
原爆の光を当時の人は「太陽が落ちた」「太陽が爆発した」と表現した人も居ましたが、爆発直後の三千度の熱線で直下に居た人は蒸発してしまったんですね! 暫くの間防空壕に居ましたが誰も来ません。あたりはシーンとして無気味な静けさ!
おかしいな! 防空壕を出て船を見るとちゃんとドックに座っていました。異常なし、やられた様子はない、とその時一人の老人がヨチヨチと歩いてきました。良く見ると何! これは幽霊かと思った両腕の皮が剥けて爪の所まで垂れて下がっていました。驚いたのなんのって!
私は早速無線室に飛込んで行って16:30からのメルボルンからの日本語放送を聴いていました。
放送ははっきりと『原子爆弾で長崎を攻撃した。落下地点は当初県庁と造船所を結ぶ線の中間を予定したが風で流された。長崎は今煙で何も見えない落した飛行機は30秒後に相当なショックを受けた。今後50年、植物は生えないだろう』と放送していました。当時は外国の短波放送を聴くのは禁止されていましたので私は胸にしまっておきましたが、政府の発表は新型爆弾でした。政府高官は知っていたろうと思います。
造船所の立神ドックは対岸がグラバー邸になります。浦上の爆心地から約3.5kmの地点です。この時港内に居た他の船のデッキで原爆の落下を最初から見ていたと言うセーラーが居ました。落下傘が落ちて来て何だろうと見ている内に段々大きくなってくる、気味悪くなって船内に逃げた人は無事だったが、爆発の瞬間まで見てしまったセーラーは後に大火傷で死んだと聞きました。
造船所は暫くの間機能しませんでした。船はドックの中に置かれた儘私は夜になると対岸の山で点々と燃える青い火を見ていました。残された家族が木を集めて身内の犠牲者を焼いているのです。これからの日本はどうなるのだろう、この次は東京が狙われるのだろうか?着るものは黒よりも白にした方が良さそうだと噂されるようになったのは広島駅の改札口の上に掲げられた列車の発車時刻表の黒い字が字の形のまんま抉られた様に抜けてる写真を新聞で見たからです。後から考えると原爆直後の熱線のせいだろうと思われます。

昭和20年8月15日ラジオが朝から正午に重大な放送があると予告していました。
船には機関銃が数台ついていましたから海軍の警戒隊員が乗っていました。隊長は学徒出陣の慶応出の若い少尉、彼は戦場に持参する一冊の本として『智恵子抄』を持ってきていました。借りて読んだ私は大変感激して読みました。隊員は家庭持ちの招集兵ばかり、隊長は「船尾についているおどかしの丸太一本では情けない、東京に行って大砲一門貰ってくる」と云って9日の原爆の一本前の列車で出発して不在でした。
私は兵隊達を無線室の周囲に集めて待機しました。
この日の天皇の放送は、『雑音が多くて良く聴きとれなかった、内容がさっぱり分からなかった、天皇がもっと頑張れと云ったのかと思った』という話を後になって良く聞きました。私は中波より短波が良いだろうと考えて東京からの短波放送を受ける用意をしていました。放送は雑音もなくはっきりと良く聴く事が出来ました。あまりにも明瞭に良く聞けたものですから兵隊達が怒って私につめよってきました。
「お前アメリカのデマ放送をきかせやがって、本当だったら承知しねえぞ」と云いました。
私は「あれは天皇の声に間違いない、戦争は終わったんだ」と説明しました。
全国民が初めて聴く昭和天皇の声とあの独特の発音と抑揚は確かに分かりにくいものでしたが、私がすぐ理解できたのは中学時代の校長のお蔭だと思います。私が入学したのは両国にある日大一中で校長は荒川五郎でした。一年生として天長節(4月29日の天皇誕生日)に校長先生が読む教育勅語を初めて聞いて一年生がゲラゲラ笑いました。
すると校長が「笑ってはいかん、私が読む勅語は天皇に代って諸君に聴かせるのだから天皇のまねをしている。天皇の声として聴け」と云いました。
それから5年間この調子を聞かされていたから8月15日の天皇の放送は素直にきけました。今日は教育勅語を持参しました。之は小学校で校長先生が読んでいた現物です。

日本が受諾したポッダム宣言第九条には「日本軍隊を武装解除して家庭に帰す」という一項目があります。当時海外に居た軍人軍属、民間人併せて700万人をどうやって復員させるのでしょうか?
問題は船です。
生き残った船をかき集めて計算しても8年はかかると云われました。
生き残った軍艦の武器や大砲を外しても軍艦はまとまって百人とは乗せられません。
復員局が悩んでいる時に終戦の年、昭和20年の12月末にGHQから指令が来ました。
『復員輸送のためにGHQからリバティ貨物船(7000トン)100隻、LST(Landing Shiptank、陸用舟艇(2000トン)100隻、リバティ型病院船6隻を、燃料をつけて貸すから船員と食糧は日本側で準備せよ』。渡りに船とはこの事、大変有難い指令でした。
リバティ型は貨物船ですから一航海に5千人乗れる予定としてそれだけのベッド、階段、洗面所、トイレ、飯を炊くライスボイラーを準備しなければなりません。
貸してくれる船が昭和21年正月から続々と横浜にやってきました。その受渡し、燃料、飲料水、船用品等の在庫調査をして直ぐに改造工事を突貫工事でやらなければなりませんでした。
関係者の努力で3月頃から引揚航海が動き出しました。そして当初8年かかると云われた復員輸送は4年半で完了しました。

戦争が終った時将介石総統が『暴に報いるに暴を以てせず』と有名な言葉を残して日本国民を感嘆させました。「日本軍闘を敵とするが日本人を敵とせず」とも云いました。
中国に行った引揚船の扱いは丁重でした。台湾からの引揚げ90万人、当初5年かかると思われましたが約半年で終わりました。私の同期の一期生が当時海軍少尉に任官して基隆に居ました。
彼は引揚が完了する最後の一人迄見守って昭和21年年末の最後の船で帰って来ましたが、終戦からそれまでの給料は将介石から月給800円貰っていたと話してくれました。
戦争は終わりました。然し海運会社は持船の殆どを失っていますからすぐには立ち上がれません。戦時中に船舶と船員を供出して作った「船舶運営会」という組織を使って海運国営を続けざるを得ませんでした。昭和25年に始まった朝鮮戦争はGHQの占領政策を大きく変えました。
それまで政策として禁止していた5千トン以上の船の建造禁止を解除し日本の海運策は外航船の計画造船によって立ち上げる事が出来たのです。
山下汽船も外国航路を再開し私は印度からの鉄鉱石の輸入の船に乗りました。そしてバシー海峡を通る時に「おーい宮崎」と彼の名前を呼んで握り飯を投げました。

轟沈の渦がうがうと曼珠沙華   轟沈の夏に弔らふ握り飯

彼への追悼の句です。