[連載]
電気通信大学藤沢分校物語 ~誕生から廃校までVol.12

近藤 俊雄(昭和33年通信経営専攻卒)

11 戦時下の藤沢

戦争の継続、激化は日本経済にとって軍備の費用は莫大なものとなり、国民の日常生活に大きな影響を与えるものとなった。藤沢市史は「戦争下の藤沢」を次のように述べている(抜粋、要約、年号は和暦のみ、原文のまま)。(注1201)

(1)戦時体制と地域組織の整備 日中戦争が、近衞首相の不拡大声明にも拘わらず長期化の様相を濃くするに伴って、国内においても準戦時体制から戦時体制への編成替えが急速に進められた。昭和12年9月初めに、政府は「国民精神総動員実施要綱」に関する内閣訓令を発し、一方では、臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法をはじめとする戦時経済統制の基本法を公布・施行した。翌昭和13年4月1日には、国家総動員法の公布によって、政府は「戦時ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制スル」強大な権限を行使できることになった。戦争の進展と共に、同法に基づく勅令・省令があいついで公布され、国民生活はあらゆる面から規制されるにいたった。戦力増強優先の物資動員計画の強行に伴い、昭和14年末頃からは生活必需物資の供給が目にみえて減退し、その割当配給制の実施を必須とするにいたった。

政府は「銃後」国民の物心両面にわたる戦争協力態勢を固めるために地域組織を整備・強化する方針を決定し、昭和15年9月11日、部落会・町内会・隣保班・市町村常会の整備に関する内務省訓令を発した。

(2)太平洋戦争開戦時の市会と常会 町内会・部落会・隣組の整備や大政翼賛会の地方組織の結成などによって国民生活の戦時編成が強化されている間に、戦争は愈々拡大の方向を辿った。

昭和15年9月に日独伊軍事同盟を締結して以後、日本は世界的な二大陣営対立の一方の極に立つにいたったが、それに伴って米・英・蘭諸国の対日政策は急速に硬化した。16年6月の独ソ開戦後、北進(対ソ開戦)を主張した松岡洋右外相の更送を契機として第二次近衞内閣は7月16 日に総辞職し、18日には海軍の豊田貞次郎大将を外相に迎えて第三次近衞内閣が発足した。同月28日、かねてから日・仏間で交渉を重ねていた仏領インドシナ(仏印)の共同防衛に関する協定が成立し、日本軍は南部仏印へ進駐した。政府はこうした南進策を強行する一方で、特にアメリカとの交渉を続けようとしたが、相手側は対日制裁を強化して譲らず、このため第三次近衞内閣は10月18日に早くも退陣を余儀なくされた。後継内閣の首班に指名されたのは現役の陸軍大将東条英機であった。彼は陸将・内相を兼ね、軍部主導の政権を固め、一気に米・英両国との開戦へと突進した。12月8日、宣戦布告と共に国民に向かって「宣戦の大詔」が発せられた。政府はこの戦争を「大東亜戦争」と称することに決定したが、現在では、一般にその観念的な色相を排して「大平洋戦争」と称しているので本書でも後者によることにする。

藤沢市では米・英両国との開戦の翌日、緊張と昂奮の雰囲気の中で市会が開かれた。大野市長が新しい事感に臨む決意を述べると共に、市会の協力態勢の必要を訴えた。12月14日には藤沢第一国民学校の校庭で市主催の戦勝祈願市民大会が開かれ、約3000人の市民が参加した。

会は「宣戦の大詔」奉読、祈願文の奏上に始まり、市長及び市会議長の挨拶に続いて、「皇謨翼賛」の決議と防諜等に関する申し合わせを行い、「愛国行進曲」の合唱と「聖壽万歳」の三唱をもって閉会した。そのあと、隊伍をととのえ藤沢駅前を経て伊勢山の忠魂碑前まで街頭行進を行った。

(3)町内会・隣組と割当配給制 町内会・部落会及び隣組の組織は、昭和15年後半から急速に進められた生活用諸物資の割当配給制の実施についてとりわけ重要な役割をになうことになった。それまでにも、諸物資の価格統制(公定価格別)・生産統計と並行して、卸売小売段階までの併給統制は強化されつつあったのだが、物資動員計画の強行に伴う生活必需品の不足が著しくなるにつれて、それらの最終消費者への割当配給を必須とするにいたったのである。藤沢町においては15年7月5日からまず家庭用砂糖の割当配給制を実施した。役場発行の砂糖購入票(切符)を各町内(部落)会に所属世帯枚数だけ交付し、町内会は各世帯の家族数と割当量を記入し所帯主に交付、各世帯はその購入票により指定配給店で割当量を購入するのである。割当配給制は、急速に範囲を拡充し16 年末には「米穀、砂糖、乳製品、油、味噌、醤油」などの食糧品、「木炭、燐寸、地下足袋、手拭、釘まどの日用品にいたる20数種類」、更に17年には衣料品の総合点数切符制が実施されたのを始め、パン粉、菓子、食肉、卵、野菜等次々に割当配給の対象に加えられていった。同年末頃には割当配給制の枠外に残された物資は殆ど無い有様となった。町内会、部落会及び隣組の組織は市民の生活の全体を包括し、その組織から離れた生活は殆ど不可能な有様となり、市民は否応なしに、戦争に協力する方向へ引きずられていったのである。

(4)自治市政の後退―都市計画街路事業 藤沢市が誕生した昭和15年秋には、既に挙国的な戦時体制が強化されており、新しい都市建設の事業を進めていくには多くの制約があった。大野市長は街路網の整備を中心とする都市計画事業に着手する方針をたて昭和16年12月13日に藤沢・辻堂海岸線など幹線道路四路線の工事を17年度から八ヵ年計画を以って施行するについて内閣の認可を得た旨告示したが、その後戦争が苛烈化すると共に、計画通りの工事進行さえも期待出来なくなったのである。

(5)翼賛議会の成立・市長の退陣 藤沢市政の施行前後から、国家総動員体制が急速に強化され、それに伴って政府や大政翼賛会などから「下達」される実施事項が、市行政の大きな部分を占めるようになった。国政次元での翼賛体制の強化、つまり政府と議会との一体化は当然地方政治の在り方をも既定した。藤沢市においても、大野市長や鈴木市会議長は機会あるごとに理事者と市会との協力関係を強調した。理事者と市会とが協力する気運は固まりつつあったが、大野市政批判の底流は絶えなかった。紙数の関係で、詳細はここでは述べないが大野市長の辞表提出、金子市長の登場(昭17. 11 .30)となった。

(6)市財政の硬直化 金子市長が就任した当時、太平洋戦争の戦局は重大な転機を迎えていた。昭和17年6月のミッドウェー海戦、8月以降のガダルカナル島における攻防戦を契機として、南太平洋における米軍の反撃態勢は日増しに強まりつつあったし、中国大陸戦線の形勢も急速に悪化していた。国内では軍需一辺倒の生産力増強策の強行によって生活諸物資の不足が益々著しくなり、配給統制や消費規制が厳しくなる一方であった。専ら戦意高揚をねらった神精運動や思想取締も激しくなっていた。そうした状勢の下では、地方行政に対する制約も強まらざるを得なかった。ちなみに、金子は回顧録の中で当時は「真に市政らしい仕事」は殆ど無かったと述べている。そのことは昭和18年度予算の編成期に際し、政府から府県・市町村の理事者に通達した方針にも表われていた。即ち①事業費は実行可能の範囲にとどめ、できるだけ中止、打切り、繰延べをすること②新規経費の計上は原則として第一に戦争遂行上のため、第二に生産力拡充のため、第三に食糧政策など政府の主要政策に即応するため、に必要不可欠な事項に限ること③新規経費として計上を要する継続事業については、特別の事由が無い限り、3年度以内に完了し、急速にその効果を挙げ得べきものに限ること。こうした枠の中では、自主的な予算を編成する余地は極めて乏しかった。18年2月22日開会の市会に提出された同年度予算は総額84万8284円で前年度当初予算より30万0388円の急増であったが、歳入面では、国税付加税及び目的税の増加割合が目立って大きく、同年初めに実施された増税の影響を示していた。また国庫補助金もかなり増額されたが、その大部分は時局関係費の補助であった。一方、歳出面では経常部の役所費・警防費及び教育費、臨時部の公債費、時局関係諸費の補助の大幅な増加が目立ち、全体として、国家統制の強化に伴う地方行政事務の甚だしい増大と繁忙化を反映した予算編成であり、そこには藤沢市としての特色は全く表われていなかった。地元側の立場からすれば、要求乃至希望する事項も少なくなかったらしいが、国の方針を前提とする限り、それらを予算に盛り込むことは事実上不可能であった。

(7)官立無線電信講習所の建設 藤沢市会では昭和19年度予算案が議決された。その総額は前年度当初予算の二倍に及ぶ192万2736円に達したが、そのうち、84万7843円は、官立無線電信講習所の建設費であった。藤沢市が逓信省の要請に応じて、同講習所を鵠沼海岸に建設することを決定したのは昭和17年3月のことであった。逓信省は太平洋戦争勃発後、陸・海軍における無線通信士の必要が著しく高まったのに鑑み、東京目黒にあった私立無線電信講習所を17年4月から官立に移管し、同時にその移転拡充を図ることにした。新校舎の建設を藤沢市に託したのは、恐らく移管前に着工する必要があったからであろう。藤沢市に依頼して建設した施設を逓信省が借上げる方式をとることになったのである。敷地買収も含めて建設費の総額を260万円と見積り、藤沢市側はその全額を起債でまかない、賃借料をその償還財源とするというのが契約の基本条件であった。起債は25ヵ年賦で償還することになっていたが、適当な機会に国側が買収することも考慮されていた。藤沢市側は17年3月26日の市会で右の起債の件と、それに関する17年度追加予算案を可決した。事実上国の事業であるから、起債については支障がなく、9月21日、大蔵・内務両大臣の許可が下り、藤沢市は直ちに大蔵省預金部資金の借入申請を行った。18年2月23日にいたり、17年度分として156万7000円の借入が決定した。そして、同年中(3月末まで)に、鵠沼地区の字上鰯と辻堂地区の字長久保にわたる山林・砂地及び畑地など約2万7500坪の買収が終り、着工の運びとなった。この間の建設費支出額は45万3092円、残り111万3907円は18年度へ繰越すことになった。但し、繰越額の確定が遅れたためか、それは18年度当初予算には計上されず、更生予算として扱った。そして同年度には、更に50万円の追加借入が実現した。工事は間組が請け負ったが、その進行は、資材や労力の不足にわざわいされ、予定よりかなり遅れた。19年度へ84万円強の工事費が繰越されたのはそのためであろう。同年度当初予算にはこの繰越額も計上され、予算額を膨張させる原因になったのである。

12工事の設計及び監督の委託

前節で1937年(昭12)頃から1944年(昭19)頃までの国民の決戦生活の状況を述べたが、その戦争の激化は、益々国民生活に重大な影響を与え、全ての物資、食糧などが配給制度の下に統制された。無論、藤沢分校の建設資材もまた配給制度下にあり、1942年昭17)5月に作成された計画書は早くも第一期工事、第二期工事と工事の分割をせざるを得なくなってきた。

藤沢市の土地(県有地、私有地)の買収は、1943年(昭18)4月まで続いた。(注1202)

藤沢市は講習所新設工事の設計及び監督を逓信省に委託した。

 

藤土發第1025號 昭和17年7月2日

・          藤沢市長 大野守衞

逓信大臣 寺島健 殿

官立無線電信講習所新設工事委託ニ関スル件

昭和17年3月24日付無電第423號ヲ以テ無電局長ヨリ御依頼ニ係ル官立無線電信講習所新設工事ハ本市ニ於テ之ヲ施行可致ノ處同講習所御使用ノ関係上貴省ニ設計及監督等ヲ委託致度候間御承認相成度此段及御依頼候成(注1203)

 

営22231號 回答 昭和17年9月30日

・          信省 経理局長

藤沢市長大野守衞 殿

官立無線電信講習所新設工事委託ニ関スル件

去7月2日附藤土第1,025號ヲ以手御来照ニ係ル官立無線電信講習所新築工事ノ設計及監督等當省ニ委託方ニ関シテハ差支無之候條御了承相成度此段及回答候追而実施ノ方法及其ノ他詳細ニ付イテハ之ガ取扱者間ニ於イテ打合セヲ為スコトニ致度(注1204)

また1943年(昭18)1月藤沢市は郷工務店と無線電信講習所建物工事請負仮契約を結んだ。

無線電信講習所新築工事請負假契約書

右建物当市ニ於イテ新築ノ上逓信省ニ貸渡スコトトシ取運中ナルモ之ガ設計監督等ハ一切同省ニ委託シ施工予定ニシテ諸手続完了ノ見込ナル所本工事施工ノ場合ハ左記ヲ以テ貴殿ト契約可致候

〈記〉

一、建物構造 木造二階建

二、坪数 総坪 壱千四百参拾九坪五六

・・・・・延坪 貮千参百四坪九九

三、工事請負金額 金七拾七万九千五百円也

昭和十八年一月十二日

・          藤沢市長 金子子一郎

合資会社郷工務店

郷 宗二 殿(注1205)

1943年(昭18)3月20日、藤沢市は建物の工事の着工にあたり逓信省、無線電信所、神奈川県庁を始め多くの関係者を招き、盛大な起工式を挙行した。

次号では起工式、第1期工事について述べる。

(以下次号)

注1201: 藤沢市史(第6卷)P758 ~P780 尚、「官立無線電信講習所の建設」の項の一部は調布ネットワークVol.27-2本物語❿でも引用している。
注1202: 調布ネットワークVol.28-2本物語⓫
注1203: 官立無線電信講習所関係書類綴り(藤沢文書館蔵)
注1204: 同上
注1205: 同上