[連載]
電気通信大学藤沢分校物語~誕生から廃校まで vol.1

近藤 俊雄(33B)

はじめに

藤沢分校_23-1私は、1958年(昭33)に電気通信大学を卒業して東京の会社に職を得た。1964年(昭39)に経堂から藤沢市辻堂に越して、1977年(昭52)鵠沼海岸に移り、爾来46年余になる。1986年(昭61)目黒会の理事に指名され、1992年(平4)から1997年(平9)まで廣神三木雄会長(33T)の下で専務理事をつとめた。(目黒会報11-2:私の交友録、15-3:私の目黒会の思い出)その後、現在まで広報委員として目黒会に関わっている。会社も定年となり、会社社会から離れると共に、地域でのサークル活動が深まり、仲間も沢山出来て、この地にやっと根をおろした気がしている。2010年(平22)5月、近くにある鵠沼郷土資料展示室で「なつかしき学び舎その6」として「湘洋中学校」の資料が展示された。藤沢分教場の写真には「昭和19年建設の旧電気通信講習所の木造2階建ての建物と敷地。戦後、電気通信大学となる。ここに昭和31年4月1日、藤沢市立湘洋中学校が開校した。」と説明文が添えられ、学校の写真数葉と資料が展示されていた。湘洋中学校を卒表した娘に「お父さんは湘洋中学に泊まった事があった」と言った所、「えぇ!どうしてなの?」、「かくかくしかじか」といっとき会話がはずんだ。

大学2年の1955年(昭30)夏同級生数人でこの鵠沼の学校寮に泊まり、麻雀、海水浴を楽しんだ。その後、この土地に住んだ私は、大学の浜見寮に気付き、この辺に学校寮があったなとボヤーと思っていたのであるが、それ以上を考えた事は無く、深く追求する事は無かった。鵠沼郷土資料展示室で写真・資料を見て初めてうかつにも「エッ、そうだったのだ」と気付いたのである。私の知った藤沢の殆どの人達はこの地に電気通信大学が存在した事も浜見寮があるのも知らない。卒業生は寮があることは知っていても、湘洋中学校が、電気通信大学の跡地にできたと知っている人は多くないだろう。この私自身も詳しいことは知らない。そこでこの機会に、目黒会、大学、藤沢市、先輩や関係者達に残る資料をたどり、証言などを求め、藤沢分校にスポットライトを当てた、「藤沢分校の歴史」を甦らせたいと思ったのである。

電気通信大学は1918年(大7)12月7日社団法人電信協会管理無線電信講習所としてここの声をあげ、その後校名が3度変更された。即ち1942年(昭17) 逓信省所管官立無線電信講習所、1945年(昭20)逓信省所管中央無線電信講習所、1949年(昭24)文部省所管電気通信大学である。藤沢分校の歴史を紐解くには電信協会管理無線電信講習所の前身である電信協会から語られねばならない。そこで本稿では逓信省所管官立無線電信講習所の成立までを、主に電気通信大学60年史(以下60年史という)を参考に、特に校名変更時の背景の流れを重点に抜粋、要約し、紹介する。

1電信協会

1.1電信協会の成立

1879年(明12)1月「万国電信条約」に加盟し、同年4月ロンドン第2回万国電信会議にも参列したにも拘わらず、依然として不公平な取り扱いを受けていた。関係当局は勿論、関係者は通信の技術、行政に関する強力な研究、調査の機関を必要とする機運が高まっていた。若宮正音電務局長(後、電信協会会長)は電務局電気試験所浅野応輔博士(1903年、水銀検波器の発明)の進言を受け、電気通信事業に関する「①学術技芸ヲ講究スルコト、②法理ヲ講究スルコト、③事業ノ拡張整理ノ方法ヲ講究スルコト」を目的として1893年(明26)電信協会を組織した。入会者は790名であった。マルコーニは1895年(明28)電波式の無線電信送受信に成功した。

電信協会は当時としては電気通信関係全般にわたる研究、事業の唯一の機関であったといえる。特に1904年(明37)の日露戦争における作戦、戦略、戦術、後方支援等のための電気通信が日本海海戦に象徴されるような驚異的威力を発揮した。その陰には本会及び会員のたゆまぬ努力と熱意が効果を上げていたことはいうまでもないことである。

1.2無線電信の実用化

1908年(明41)ベルリンで締結した万国無線電信条約が公布され無線電信による公衆無線電報取扱が開始された。この条約は無線電信機器の機能についての考慮と無線通信従事者の技能についての要求が含まれていた。無線通信者の養成が必要になってきたのである。唯一の養成機関の逓信省通信官吏練習所(後の逓信官吏練習所、通称官練)で養成することになり、同年卒業生25名を海岸局、無線電信局に勤務させた。以後大正末期まで臨時養成を行ってきた。1912年(大元)タイタニック号が沈没した。

1915年(大4)「海上人命安全条約」が発効し、搭載人員50名以上の外国航路は全て無線電信設備が必要になり、同年新たに無線電信法を制定しこれに伴う私設無線電信規則、通信従事者資格検定規則も施行された。無線電信局は船主が施設する純然たる船舶の救難、航行の安全、船舶の事業用の設備となった。1914年(大3)に勃発した第一次世界大戦の影響で危険海域を航行する船舶は義務に関係なく、無線電信を必要としていた時代で、船主は敷設を急ぎ、メーカーは無線電信機器製造に追われていた。私設無線電信は主に船舶の無線電信であったが、官練は専門の官吏を教育する機関であるから、私設無線局に配置するわけにはいかないし民間人を養成することも出来ない。然し、通信従事者がいなければ航海出来ないので、逓信省は臨機の措置として1916年(大5)官練無線科卒業者を私設無線局に配置、そしてその後の私設無線通信従事者の養成は無線機製造会社に任せたのである。しかし、船舶会社の通信従事者の獲得には相当の色々な苦労があった。

1.3帝国無線電信講習会の開設

そのような背景の中で逓信省の方針、海運界各方面の要望に応えて、安中電機製作所(現安立電気㊑)が1916年(大5)港区の自社工場内に「帝国無線電信講習会」を開設し、従事者の養成にあたり300余名の検定合格者を出し、従事者払底の危機を救った。無線電信機及び従事者の大量需要の時代を迎え、1917年(大6)協会に新たな無線電信講習所の建設経営という問題が持ちあがったのである。

2電信協会管理無線電信講習所

2.1民間養成所の継承決意

1917年(大6)12月、電信協会は帝国無線電信講習会を継承経営することに決定した。その理由は逓信省の勧めと、青山禄郎安中電機製作所社長の「一民間製造業者が、無線通信士養成などの公共的性格の事業を兼営すべきでない」とする判断に基づいて、同社が経営する帝国無線電信講習会を電信協会に譲渡したいとの申し出があったことによるが、海運業者からも逓信省に対して無線従事者養成機関を強く要請した等の緊迫した事情によるものでもあった。

2.2海運会社から予定を超える寄付金

1918(大7)年7月、若宮会長は関係有力者を帝国ホテルに集めて、「電信協会において国家のための無線学校を創設する計画」を説述し、予算案を提示して協賛を希望した。定款に「④電気通信技術員ノ養成ヲ為スコト」が加えられ、以後の協会の主体をなすものとなった。当時一般産業は好景気で、殊に海運界の活況はすばらしく、日章旗は世界各国にひるがえった。諸外国では船舶の無線電信施設を義務付ける法規を採用する傾向が著しくなってきた。従って無線電信設備をする船舶が激増し、また無線通信従事者の需要も急増し、その速成が海運業者方面から熱望されるような状況であったので、寄付金は予想以上の多額に達した。寄付者は日本郵船(株)以下37社、寄付金総額は46万1千円であった。

2.3社団法人電信協会管理無線電信講習所の開設

1918年(大7)12月7日、社団法人電信協会管理無線電信講習所が麻布区飯倉町に開設された(電気通信大学の歴史が始まった)。1919(大8)4月同町の幼稚園の階上を仮教場として31名が入学した。7月には東京府豊多摩郡渋谷町(安中電機製作所)に講習所支所を設置し、短期講習科の授業も開始した。1920年(大9)12月、下目黒村に土地(3,775坪)、総建坪(約262坪)、建物延坪数(約451坪)の新校舎が落成した。土地の買収価格約98,135円、工費119,800円であった。爾来10数年間、私設無線電信施設への無線通信士の安定供給は、無線電信講習所通称「目黒無線」の一手にゆだねられてきた。

2.4私立無線学校の濫立

1931年(昭6)満州事変後各方面で無線通信士を多数必要とする情勢となったにも拘わらず、日本唯一の電信協会管理無線電信講習所の通信士養成の拡充も思うように伸びず、更に急激な通信士需要(供給は数分の一)に直面し、遂に各所に私立の無線学校が設立されるに至った。昭和10年までに設立された私立無線学校は5校であったがその後19校に達した。19校の内、各種学校として府県知事の認可を受けたものは10校であるが、認可はしたものの適切な指導監督は行われなかった。私立無線学校はごく一部を除きその経営方針は営利主義で私立無線学校の評判は地に堕ちた。国家試験による所定の資格を取得できる人はその1%にも達しない状況であった。

然し、通信有技者の需給逼迫の時局柄、通信術だけで資格を必要としない大陸軍関係の需要が急激だったため、卒業者の約半数が無資格のまま通信に従事することになり、この間太平洋戦争に突入し、次第に計画的教育、配員の必要に迫られるのである。

3官立無線電信講習所(逓信省所管)

3.1官立無線電信講習所設立の要請、国家的事業に

無線通信士の需要は1937年(昭12)日支事変の進展とともに、益々増大の傾向をたどり、質的方面においても飛躍的向上を期する必要が痛感されるようになった。このような情勢下において国家助成というよりも、むしろ国立の無線電信学校を設立して通信士の養成を図るべきだとの要請が官、民各方面から起こり始めた。1941年(昭16)4月船舶無線通信士養成に関する逓信省官船局長からの諮問事項に対し同年6月船舶無線懇談会専門委員会は無線通信士養成制度改正の件として船舶無線通信士をいわゆる無線従事者としてのみ律するは当を得たものに非ず、むしろ他の乗組員同様船舶職員としての資格を与えることは船内体制上にも肝要な方策であるとして、無線通信士の養成制度及び関連事項につき適当なる改正を加えることの詳細な意見具申がされた。官側の原案は、①官立無線電信講習所設立の必要性、②無線通信士の検定試験制度と養成施設などについて述べ、無線通信士の需給を図る応急策として本邦唯一の国家検定校である電信協会管理無線電信講習所を官立に移管せしめ、その施設の大拡張を実施し養成人員を倍加することが必要であるとした。

数次に亘り審議を重ねた結果、官民合同の熱望は受け入れられ、逓信省所管官立無線電信講習所を設立することに意見の一致をみるに至った。

3.2逓信省所管の理由

官立無線電信講習所は逓信省逓信部内の従業員を養成する逓信講習所や逓信官吏練習所などと異なり、卒業生はすべて一般の民間企業の従事者として就職する点では、医科、工科系の一般専門学校と同一視し得るものである。従って本来は文部省所管となるのが本筋であるが、本講習所において養成する無線通信士は、その取り扱う業務面につき逓信省が全面的に指導、監督を実施する必要があった。これと関連して通信士資格の付与や無線局に対する選任事務についても一貫統制を行っており、又船舶並びに航空機の無線電信はその殆どが公衆通信に供用されている関係もあって逓信省の所管とすることが望ましかった。更にまた無線通信施設の増加、並びに船舶・航空機などの建造計画に合わせて通信士の養成計画を立てる必要もあった。これらのことを考え合わせる時、諸般の事情(教員、教育施設、実習現物等)にかんがみ逓信省において直接その経営に当るのが妥当であると認められ、同省の管轄下におかれることが決定したのである。(60年史)

3.3官立無線電信講習所の成立(第79帝国議会)

1941年(昭16)10月18日に成立した東条内閣は、対米開戦のための内閣であり、遂に12月8日未明真珠湾の急襲、マレー半島の奇襲攻撃を決行したのであった。15日には香港のイギリス軍が降伏し、日本軍の快進撃で沸き立っている時、第79帝国議会(12月26日~3月26 日)が開かれた。この議会は戦争遂行に関わる法案と巨大な臨時軍事費を議決することであった。

議会出席者には戦後、総理大臣に就任した岸信介(商工大臣)、池田勇人(大蔵省書記官)、佐藤栄作(鉄道省監督局長)、大平正芳(興亜院調査会)等の名前が見える。(帝国議会会議録データベースシステム)

昭和17年度予算案は88億3,700万円で、追加予算を加えた前年度予算に比べると1億7,900万円の増加であったが、臨時軍事費の方は180億円という巨額の予算となっていた。それは前通常議会に提出された58億8,000万円の3倍を超えるし、またこの経費が開設された昭和12年9月以来成立した予算の合計額が289億3,500万円と比べてもその急増ぶりをうかがう事が出来る。この議会では管理通貨制度を恒久化し、強化するための日本銀行法の改正、直接税中心の増税案(所得税、法人税、相続税)など、間接税についても税の新設(電気瓦斯、広告、馬券など)、値上げ(国鉄運賃・郵便料金など)、また戦後にまで受け継がれて食料統制の基本となった食料管理法の制定がされた。国民負担が一挙に増大したのである。(古屋哲夫「日本議会史録」3)

1942年(昭17)1月31日、2月2日に開催された予算委員第六分科会議に逓信省大臣寺島健、電務局長中村純一、工務局長松前重義等が出席、議会で予算が議決され、4月の官立無線電信講習所の成立が確定した。

然し、当初大蔵省に提出された予算額は2百数拾万円であったが、それが復活要求のつど、減額され、最終的には120万円程度に減ったのであるが、復活予算として認められたのは更にその半額の63万円余であった。これでは校舎、設備の拡充はほとんどできない額であったが、それでもまず橋頭堡を獲得した喜びは格別であった。尚、電信協会の無線電信講習所の施設一切は国家に寄付された。

3.4藤沢分教場の計画

成立予算の63万円は無線電信講習所の従来通りの運営費だけでいっぱいとなるので、校舎の新設等は、藤沢市当局を動かして同市鵠沼海岸に建造して、これを貸与させることにした。その所要資金約260万円(当時の藤沢市の年間予算総額は80万円)は藤沢市の市債を発行することとして、内務省に対する交渉など一切は逓信省において斡旋することとなった。この260万円で、土地約10,000坪の他、校舎、寄宿舎、講堂、武徳殿など約2,000坪の建築を行う予定であった。同年4月1日官立無線電信講習所初代所長として中村純一電務局長が兼務で任命された。(60年史)尚、80年史には官立(無線)講習所業務開始(中村所長事務取扱)とある。(以下次号

(注)本稿で引用された史料、資料は最終稿にまとめて記載します。