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47私たちは太平洋戦争開戦4ヶ月後の昭和17年4月15日に電信協会管理から逓信省(現総務省)に移管されたばかりの官立無線電信講習所第一部(船舶)高等科に入学しましたが、その3日後の白昼、米空母ホーネットから飛来したB 25爆撃機数機による東京初空襲の洗礼を受け戦争の厳しさを知らされました。当時一般学生は軍需工場で勤労作業をさせられましたが、無線講は戦争激化で犠牲が増えた無線通信士の早期育成を軍から要請されていたので、勤労奉仕はなく夏・冬の休暇も短く、更に席上課程(座学)は3ヶ月短縮されて昭和19年1月から船舶・工場・海岸局の実習に入りました。しかし3月末になって海軍予備員制度が施行されたので、乗船実習中で帰国できない者以外は急遽海軍の入隊検査を受け、合格者は4月20日久里浜の海軍通信学校に入校し、約半年間上陸(外出)禁止で連日気力体力の限界まで厳しく鍛えられ、何とか軍人らしくなった9月26日に海軍課程を修了し、続いて30日に無線講を卒業しました。乗船実習中に戦死したり、航海中で帰国できず卒業式に出席できなかった者一高一期クラス会閉会報告小田原敏介クラス会だよりもかなりいました。昭和19年11月1日海軍課程修了者全員が召集されて任官した後、各地の海軍部隊に配属されて戦争に参加し、護衛艦や沖縄戦などで仲間から戦死者を出した後敗戦になりました。敗戦後、混乱していた社会情勢が少し落ち着いた昭和22年6月1日、無線講藤沢分校の教官をしていた名取君(現・杉目君)が、連絡可能な少数の同期生と共に「クラス会報第一号」を発行して「一高一期クラス会」を発足させ、彼が海上保安庁に転職した後は福地君がクラス会事務を引き継いでクラス集会や会報発行を継続しつつ、戦災や疎開で住所不明になった多くの級友の安否を捜しました。私たちは戦争中の物資食料不足に悩まされながら勉学した後戦争に参加し、幸運にも生き残った者たちの集団なので結束は固く、発足当初は東京付近の者だけの集会でしたが、住所判明者が増えるに従って会員は全国に拡がりました。その後大多数の者が定年退職した昭和54年からは、地方在住者が世話役になって、東北から九州までの名勝保養地などで楽しい一泊のクラス会を行ってきました。また戦後しばらくたった頃、戦争中に実習生として乗船した船が撃沈されて死亡した23名の級友は、身分が学生だという理由で国からは慰霊も何もされていないことが判ったので、その冷たい仕打ちに憤慨した私たちは「それなら我々で彼らを慰霊しよう」と、奥琵琶湖畔の古刹本照寺の住職をしている同期の三浦君に慰霊法要をお願いし、昭和49年8月3日多数の級友が本照寺に集まって、戦没者だけでなく病死した級友も加えた慰霊法要を盛大に行いました。それ以後毎年6月6日には本照寺で三浦住職が慰霊法要を行い、さらに5年毎には級友一同が

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