調布ネットワーク 25-2
47/55

45「鵠沼館」が開業し5年ほどの間「対江館」(田中耕太郎建築)「東屋」(伊東将行建築)が相次いで開業した。1891年(明24)学習院が隅田川の浜町河岸にあった遊泳演習場を片瀬に移すと、片瀬海岸に学習院の寄宿舍が建てられた。1911年(明44)遊泳演習所は沼津御用邸の隣接地に移されるが、この跡地を活用して村営の海水浴場が開設された。長後は、開港地横浜に続く長後街道と機業中心地八王子へ続く八王子(滝山)街道の交差点の故により、台地上の各地に製糸工場が設立され養蚕業の中心地となった。藤沢市域で最初のキリスト教会が開設され、平野友輔が近代医療を開始した。1887年(明20)、後に東海道本線となる横浜―国府津間が開通し藤沢停車場が開設される。鉄道の開通により農業形態も自給農業から商業的農業へ発展した。北部の台地では養蚕に加えてサツマイモ栽培と澱粉工業・アルコール醸造、その残渣を利用した養豚が盛んになる。南部の砂丘地帯はサツマイモやモモなどが特産品となった。1878年(明11)に郡区町村編制法が実施され、高座郡役所が藤沢に置かれた。町村統合は続き、1908年(明41)には藤沢大阪町・鵠沼村・明治村が合併して藤沢町が誕生した。1868年(明治元)に廃止された相州炮術調錬場のうち、辻堂は横須賀海軍砲術学校の演習場(詳細次号)として残されたが、鵠沼は大分の府内城主だった大給子爵が入手した。鉄道開通を機にここに日本初の大型別荘分譲地・鵠沼海岸別荘地が開発(武蔵川越の出身、伊東将光)されることになる。広大な不毛の砂原に一町ごとに街路網が敷設され、区画と砂防のためにクロマツが植栽されて分譲された。1932年(明35)、江島電気鉄道藤沢―片瀬間が開通する。以来、華族や富豪の別荘が次々に構えられ、一方で区画を数百坪単位に細分して営まれた貸別荘を拠点として、白樺派の文士(武者小路実篤、志賀直哉等)や草土社の画家(岸田劉生)、大正教養主義の学者(安倍能成、和辻哲郎)らによって新しい自由な文化が鵠沼から発信された。1923年(大12)9月1日、関東大震災によって市域で4000戸余が倒壊したが、大規模な火災は発生しなかった。津波によって江の島桟橋をはじめ、境川、引地川の橋は被害を受けた。海岸部では1メートル前後の隆起がみられ、砂浜は広がり、江の島では隆起海蝕台が海面上に現れた。震災からの復興は急ピッチで進められ、被害の大きかった京浜地区から多くの人々が移り住み、海岸部の別荘地は定住の住宅地となっていった。1929年(昭4)小田原急行鉄道江の島線が開通すると本鵠沼や鵠沼海岸駅周辺では耕地整理の名目で街路の整備が行われて住宅地化が進んだ。震災からの復興が一段落した頃、レジャー施設の開設が相次いだ。鵠沼海岸には安全プール、藤沢には競馬場、片瀬山には遊園地「龍口園」が開かれたが、世界恐慌の影響などで長続きしなかった。1929年(昭4)、県知事山縣治郎は湘南と箱根を結ぶ国際観光地の開発を目指し、「湘南遊歩道路」県道片瀬大磯線の敷設を行った。当時は緑地帯や乗馬道も設けられ、砂防林として砂丘列に沿ってクロマツが植え付けられた。一方、相模野台地南端の地形と展望を活用し、藤沢カントリー俱楽部 (設計:石井光次郎、赤星四郎他)が開設された。1940年(昭15)藤沢町が市制を施行して藤沢市が誕生する。翌年には鎌倉郡村岡村、さらに翌1942年(昭17)に高座郡六会村が藤沢市に合併した。太平洋戦争に突入すると、北部の台地に藤沢海軍航空隊と海軍電測学校が開設される。南部の海岸地域に、官立無線電信講習所が藤沢分教場を設置した。戦争が激化すると、藤沢市は疎開先となり、人口が急増した。(以下次号)注)引用資料は最終稿にまとめて記載します。注61:会報Vol・24-1注62:鵠沼郷土資料室注63:ウィキペディア「藤沢市」電気通信大学藤沢分校物語…❻

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です