調布ネットワーク 25-2
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44調布ネットワークVol.25-2建てた。一方、藤沢宿周辺の43か村は助郷村に指定されて負担が増した。(写真①、写真②:注63)1728年(享保13)幕府鉄砲方の井上左太夫貞高が享保の改革の一環として片瀬山から相模川に至る湘南海岸に相州砲術調錬場(鉄砲場)を設置する。鉄砲場内での耕作が禁じられたほか、物資運搬や宿舎提供などが義務付けられ、村民の負担はさらに増えた。藤沢市域は水田適地が少なく、麦や雑穀を中心とする自給的な農業が中心だった。辻堂や鵠沼の砂浜では地引網が主な漁法だった。漁獲物の多くはイワシで、干鰯(ほしか)として肥料にされた。江の島ではカツオ漁と磯物のイセエビやサザエ漁が行われた。片瀬は河口港として発展し、高瀬舟で川を下ってきた年貢米や諸物資が、200石船などの外洋船に積み替えられた。260年余の江戸時代には、元禄地震や安政地震をはじめ、想定マグニチュード7以上の巨大地震は9回を数え、富士宝永山の大噴火や浅間山の大噴火が飢饉をもたらした。藤沢宿は境川の谷の出口がふさがれたような場所にあるため、しばしば水害に悩まされた。5・4 藤沢市の近代1868年(明元)9月、明治維新によって神奈川県と改称された。1872年(明5)羽鳥村の名主三嘴八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて読書院を開設し同年8月、学制が布かれると読書院は羽鳥学校に改称し、以下藤沢市域では鵠沼学舎(現鵠沼小学校)など5校が次々に開校した。一方小笠原東陽の読書院は中等教育部門を私塾として存続させ、後に耕餘塾、更に耕餘義塾と改称し、政財界に多くの人材(鈴木三郎助、吉田茂等)を送り出した。然し1897年(明30)台風で校舎が全壊し、1900年(同33)に廃校となった。王政復古の大号令の下に、明治政府は神政政治を目指し、廃仏毀釈を早々に断行した。この影響をまともに受けたのが江の島の金亀山与願寺である。寺は廃されたが弁財天信仰は引き継がれ、宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館となった。開港以来、片瀬や江の島には多くの外国人が訪れるようになった。動物学者のモースはシャミセンガイ研究の為、江の島に日本最初の臨海実験所を開いた。貿易商のコッキングは江の島の東山頂部にあった与願寺の菜園を買い取り、別荘と熱帯植物園を造営した。ヨーロッパ式の海水浴も伝えられた。医師ベルツは海水浴場適地を探索し、片瀬は海水浴適地と内務省に紹介した。「海水浴場」と銘打った例としては、1886年(明19)の鵠沼海岸海水浴場が最初である。海水浴客を当て込んでせ伝馬を置く。これが「大鋸(だいぎり)」の地名の起こりであり、現在に続く藤沢の街の基礎が形成された。1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏は敗北し、遺領は徳川家康の支配下に入った。家康によって五街道が整備され、藤沢に御殿・代官陣屋が設置され、東海道の伝馬宿となった。 江戸初期に遊行上人普光が再建した清浄光寺(遊行寺)(写真①)は、1631年(寛永8)幕府から時宗247寺の総本山として認められた。藤沢は宿場町と門前町を兼ねた性格をもつようになる。江戸の町人文化が安定して発展した元禄期頃から、大山詣や江の島詣(写真②)が盛んになり、藤沢宿は東海道の往来ばかりでなく、江の島道の分岐点としても賑わうようになる。この頃、杉山検校が江の島道の各所に弁財天道標を写真①清浄光寺(遊行寺)写真②

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