調布ネットワーク 25-2
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42調布ネットワークVol.25-2逓信省が、藤沢市議会で「官立無線電信講習所新設費起債」をお願いした経緯を説明した。その中で、特に藤沢市に場所を求めた理由として「①学生2000人を収容可能、②船で通信訓練をするため海軍方面とも連絡の便が良く、日常何時でも海員に関する訓練を行う事が可能な場所、③校舎、寄宿舎を建設し政府に貸してくれる適当な公共団体である」と述べた(注61)。理由の「藤沢市は海軍方面とも連絡の便が良く…」とはどのようなことなのか、を探る。本章では先ず藤沢市の一般的な歴史的・地域的特質の経緯について紹介する。5.藤沢市の特質(注62)5・1 湘南の中心都市・藤沢藤沢市は首都東京の南西方向ほぼ50キロに位置し、湘南地方とよばれる神奈川県の相模湾南東岸の中心にある。周囲は横浜市、鎌倉市、茅ヶ崎市、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町に囲まれ南北12キロ、東西6・5‌5キロと南北に細長く、面積は69・5‌1平方キロで神奈川県総面積の約2・9%を占める。地形は大きく三つに区分できる。南東部は第三紀層からなる三浦丘陵の北西部端で、陸繋島の江の島もその一部である。北部はかつて相模川が形成した大きな扇状地が隆起した洪積台地であり、相模野台地の南部にあたる。平坦な地形で東に境川、中央に引地川が谷底平野を形成して南流する。台地の西部は高座丘陵とよばれる部分で、相模川支流の目久尻川・小出川が南西方向に流れる。南部は縄文時代後期まで浅い海底だった所が陸化して形成された海岸平野で、湘南丘陵地帯とよばれる。西の辻堂、中央の鵠沼、東の片瀬で砂丘列が見られる。気候は南部ほど海洋性気候の影響が強く、温和で、リゾート地形成の要因となっているが、飛砂や煙害を被りやすいという側面をもっている。5・2 藤沢市の先史から中世まで藤沢市域に人々の暮らしが見られるようになったのは、今から凡そ、3万年前の後期旧石器時代とされる。(途中省略)時代は下がり、735年(天平7)の「相模国封戸租交易帳」に、鵠沼辺りと推定される「土甘(とかみ)郷」が、古代藤沢として初めて公的な記録に登場する。文学作品「更科日記」には藤沢付近の「村岡」の地名がでてくる。(途中省略)「延喜式神名帳」に載る古社としては、大庭神社・宇都母知神社(打戻)・石楯尾神社(鵠沼)がある。石楯尾神社の地にはのちに皇大神宮が勧請され、電気通信大学藤沢分校物語❻誕生から廃校まで近藤 俊雄(33B)

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